善意の押し付けと自然な善意、良い行いがお節介になっていませんか? | スピリチュアル専門サイト

善意の押し付けと自然な善意、良い行いがお節介になっていませんか?

【門次郎のスピリチュアルブログ】

善意の押し付けと自然な善意

善意には、自然な善意と押し付けや押し売りといった善意もあります。

後者の場合は、俗に言うお節介になりかねません。良かれと思いやったことも「余計なお節介だ」と捉えられては逆効果です。

押し付けの善意には、自己満足という想いを遂げたい気持ちが含まれているため、お節介と捉えられがちです。

自然な善意であるために、押し付けの善意にならないために、注意すべき点などをお話しさせて頂きたいと思います。

押し付けの善意

押し付けの善意になる理由として、もっとも気をつけなければならないのは「良い人アピール」になっていないかということです。

例えば、近所の老夫婦のお婆ちゃんが入院して、お爺ちゃんが不憫で可哀想…

可哀想だから晩御飯を食べさせてあげようと思い、晩御飯に誘うとします。

ここで注意しなければならないのは「可哀想」と「〜してあげる」という部分です。この二つの気持ちが強くなると、押し付けの善意になりかねません。

こちらが可哀想だからと思って面倒を見てあげるとしても、お爺ちゃんは本当にそれを望んでいるかわかりません。

仮に食べに来たとしても、断りにくかったのかもしれません。本当は、一人でのんびりとご飯を食べたいのかもしれません。

可哀想だからと誘ってあげても、お爺ちゃんにとっては大きなお節介の可能性があります。

はたから見て不憫に思ったとしても、本人はそうではないという事はよくあることです。

また「ご飯を食べさせてあげる」という表現は「〜してあげる」という上から目線です。

こうした目線でお爺ちゃんを誘っても、お爺ちゃんは肩身が狭く、嬉しくないのが本音かもしれないのです。

可哀想という同情も、〜してあげるという上から目線も、スピリチュアルの視点では小我になります。

「可哀想だからしてあげる」というのは、心のどこかに、面倒を見てあげることで自分の気持ちを安定させたい思いが垣間見れるのです。

その場合、自己満足の「小我」になります。

さらには、周囲の人に私がお爺ちゃんの面倒を見てあげていると話す人は、自分の善意を人に知ってもらいたい思いがあるからです。

自分が良い人であることをひけらかしたい思いがあり、それも「小我」になります。

小我の善意は押し付けの善意になることがあり、せっかくの行為も仇となることがあります。

善意は押し付けるものではなく、自然な善意でなければいけません。

そこで、自然な善意とはどういうものなのかを、お話しさせて頂きます。

自然な善意

自然な善意をスピリチュアルでは、大我の善意と言います。

大我の善意であれば、黙々と行動するだけで、周囲の人にひけらかす事もありません。大我の善意には、良い人に思われたい気持ちがないので、お爺ちゃんと自分だけの話です。

お爺ちゃんの力になりたと、自然な善意で接するなら、しつこくしない事です。

例えば「もしも困っているなら言ってくださいね」と声をかける。黙っていては伝わりませんので、言うことは言わなけれいけません。

しつこくしてはいけませんが、お爺ちゃんに一度言っただけではおそらく社交辞令だと思われるでしょう。

ですので顔を合わせた時に「どうですか?」と声をかけ、社交辞令ではないことを分かってもらわなければなりません。

そして、いつでも相談に乗る姿勢を見せるために、連絡先を渡しておくなどすると、さらに伝わるでしょう。

ここまでしたら本当に困った時、お爺ちゃん自ら連絡をくれるでしょう。

無理やりお爺ちゃんを家に呼び寄せるのではなく、お爺ちゃんの意思に任せるというのが自然な善意です。

さりげなく、押し付けがましくなくするのが自然です。

大我である自然な善意は、小我と違い押し付けがましくありません。

どんなに良いことであっても、押し付けた時点で、それは自分の気持ちを安定させたい小我になります。

押し付けるのは、相手よりも自分の気持ちを満足させたい部分が前に出ているからです。

せっかくの善意が、押し付けにならないように注意したいものです。