グループソウルとは?

2017/08/03霊的な事

グループソウルとは、この世の家族とは別の、霊界にある魂の家族のことで、私達の本当の家族です。

また、グループソウルを類魂とも呼びますが、意味は同じです。

この記事では魂の家族であるグループソウルについて詳しく説明させて頂きます。

 
 
 

グループソウルとは?

私達は、輪廻転生を繰り返して魂を成熟させていきます。輪廻転生の繰り返した回数が多い魂ほど、魂の年齢が高いということになります。

魂の年齢が高くなり魂が成熟してくると、本当の意味で愛を持つ人格へと成長していきます。

現世、とても素晴らしい人格者で成熟した魂であっても、過去世をたどれば、未熟な魂と同じことをしていた時代があります。

未熟な魂を一言で表すなら、人の気持ちをわからずに、自分本位で生きる魂のことです。

自分の利益のために、人を騙したり、苦しめたり、蹴落としたり、殺めたり、そういった魂は魂年齢が幼くまだまだ未熟な魂と言えるのです。

どんなに成熟した魂であれ、この世に生まれてきているのは未熟な部分があるからで、未熟な魂も成熟した魂も、魂の成長のために生まれてきています。

どんなに未熟な魂も成熟した魂も、スピリチュアルの視点では、赤の他人とは言えないという話をこれからさせて頂きます。

グループソウル・類魂

霊界には、グループソウルと呼ばれる家族がいます。

グループソウルをわかりやすく説明するために、スピリチュアルではコップの水に例えられます。

コップに入った水をイメージしてください。コップの中の水がグループソウルです。

私達は霊界にたどりついたら、このコップの中の水にとけ込みます。

グループソウルは、これまで魂が輪廻転生を繰り返してきた記憶が残る叡智(えいち)の宝庫です。

私達が、現世で経験した記憶も喜怒哀楽も、このコップの中の水にとけ込み、それが叡智となります。

現世で経験した喜怒哀楽は、コップの中の水を綺麗にします。コップの中の濁りを無くすために、私達は生まれてきたのです。

私達が現世で経験する喜怒哀楽は、水を少しずつ透明にする力があります。

グループソウルは、何度も何度も輪廻転生を繰り返し水を透明にしているのです。

なぜ水が濁るのか?水を濁す原因となるのが、グループソウルの未熟な部分です。

その未熟な部分を無くすために、私達は現世で大我(無償の愛)を学んでいます。

私達は、グループソウルから飛び出した濁りのある水滴です。

と言うことは、誰もがグループソウルの未熟な部分を背負って生まれてきているため、未熟ではない人はこの世に存在しないのです。

私達は、未熟者であって当然なのです。

私達は皆、神の未熟な部分から生まれた未熟な魂です。神の未熟な部分がグループソウルとなり、私達「個」の魂になります。

グループソウルを完全に浄化し、また神と融合します。私達がこの世に生まれる目的は皆同じ、いずれ神と同化する為です。

皆、出所は同じですから、魂に赤の他人という概念はありません。

このように、広い意味でグループソウルを捉えるなら、世の中の人全てが自分であり、神もまた自分なのです。

成熟した魂も、幼い魂も、この世界で関わり、切磋琢磨している自分なのです。

スピリチュアルの世界では、私達も神の一部であり、どんなに凶悪な人であれ、悪魔であれ、神の一部と考えます。

そう考えると、魂の視点でもこの世の視点でも、自分以外の者を赤の他人とは言えないのです。

この概念があれば、因果応報の意味も納得がいきます。人を傷つければ自分に返るのは、自分を傷つけているからです。

グループソウルの濁りを無くすため生まれてきた

私達が生まれてきた意味は、グループソウルの濁りを無くすためです。

未熟な部分を背負って生まれ、未熟な部分を無くしていくために生まれてきたのです。

霊界は天国、霊界の記憶があると霊界に戻りたくなります。そのため私達は、霊界の記憶を消されてこの世に生まれています。

未熟な自分を向上させるためには、未熟者であることに気づくことが必須となります。

そのため、私達は生きていく過程で自分の未熟さを痛感させられる経験をしていくことになるのです。

グループソウルでは、どの魂も自分だと認識していますが、現世は肉体をまとい、自分と他人を別の存在と区別します。

そのため、自分という個にとらわれることになります。自分の欲望、快楽を満たすために愛を見失います。

恋愛、結婚、人間関係、仕事、家族、お金、肉体、精神などを通じて、様々な角度から自分の未熟さを痛感させれるのです。

もしも、自分の未熟さや愚かさを感じたことがない人がいるとすれば、それはまだ、未熟さに気づくための経験をしている途中だからです。

この世は、自分の弱さを炙り出す材料が揃っています。だから未熟さに気づき、正すことができるのです。

気づきの早さは人それぞれですが、自分の未熟さや愚かさを受け入れ正す道を選ぶことで、人生が好転していきます。

自分の未熟さに気づき、受け入れ、健全な心を手に入れることを目指していれば間違いありません。

私が生まれてきたのは、未熟さを痛感し、それを正し、その叡智をグループソウルに持ち帰り、コップの中の水を透明にするためです。

未熟さを痛感するためには、辛いことや苦しいことや不測の事態を経験させられます。

しかし、この世はそういうところだと知っていれば、様々な出来事も受け入れられるようになります。

私達は、グループソウルにたくさんの喜怒哀楽を持ち帰れればそれで良い。どんな経験も叡智となります。良くも悪くもたくさんの経験をしましょう。

すべての人がグループソウル

世の中の人全てがグループソウルという概念があるなら、人が人を裁く行為も、自分で自分を裁いている行為になるのです。

罪を犯した人を自分とは別者として裁く事は、スピリチュアル的にはおかしな話です。

とはいえ、無法地帯にするわけにもいかず、本当に難しいところだと思います。

罪を犯した人を世の中から排除すればいいと考えるのは当たり前の感覚に思えますが、その感覚というのは利己的な考え方で小我となります。

本当の意味での愛を考えるなら、罪を犯した人に罰を与えることを目的とするのではなく、その人の魂が自分の犯した罪の重さに気づき、深く反省して二度と同じ過ちを犯さないと誓えるようになる事ではないでしょうか。

罰ではなく、気づきを与えることが、本当の意味での魂の成長となります。

「人を殺めた人は死ねばいい」と思うかもしれません。しかし、反省することなく死刑になるよりも、生きて自分のしたことを悔やむ時間が必要とも言えます。

被害者ご遺族のことを考えると死刑が妥当なのかもしれませんが、死刑にすれば罪を終わらせることになるのかもしれません…

生きて罪の大きさに苦しみ反省することが、罪を犯した人が背負う十字架との見方もあると、私は思います…

グループソウルとは霊界の家族であり、広い目で見れば、世の中の人全てがグループソウルであるというお話でした。

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