自分の器を知った善意こそが本当の善意、無理をする必要はない | スピリチュアル専門サイト

自分の器を知った善意こそが本当の善意、無理をする必要はない

【門次郎のスピリチュアルブログ】

自分の器を知った善意と、その場の感情に流された善意の違い

善意を持つことは大切です。しかし、無理をして我慢をしてでも善意を持つことが望ましいのか?と言えば、また違った話になります。

大我の善意とは、自分の器を知った上での善意が前提となります。

無理な善意は、いつか無理が祟るので、そうならないためにも本当の意味での大我の善意を知っておく必要があります。

この記事では、自分の器を知った善意でなければならない事をお話しさせて頂きたいと思います。

自分の器を知らない善意について

私は、子供の頃から動物が好きなほうでした。

私の子供の頃というのは、今と比べて捨て猫などが多かったように思います。

通学路の途中、学校帰りに歩いていたら、「にゃ〜にゃ〜」と子猫の声が聞こえてきました。

見るとそこには、ダンボールに入った子猫が一匹捨てられていたのです。

当時小学二年生だった私は、可愛い子猫が泣き続けている姿を見て可哀想に思いました。

私は、子猫を抱き上げて家に連れて帰りました。

両親に見せると、うちで飼うことになったのです。

放っておいたら死んでいたかもしれない猫を可哀想に思い、拾って帰ったまでは善意の行為だと思います。

しかし、大我の善意か、小我の善意かは、その後の行動で変わってきます。

子猫を拾い二年くらい育てたでしょうか…

ある日、引越しをすることになりました。

引越し先は、借家で猫を飼うことは禁止されていました。

そのため、猫を遠くに連れて行き捨てたのです…

飼っていた猫を捨てるのは、我が子を捨てるも同然で、ハッキリ言って酷いことです。

可哀想だからと飼ったとしても、ずっと面倒を見る覚悟がないのなら飼ってはいけません。

私達家族がした行為は、自分の器を知らないで行なった善意であり、小我の善意だったと思います。

これを本当の善意とは言いません。

一時の感情に負けて猫を拾ったばかりに、家族に迷惑をかけ、猫にも寂しい想いをさせたことになります。

飼い猫が、野良猫の世界で生きていけるのか…縄張り争いなどしたことのない飼い猫にとって、厳しい現実を与えてしまったに違いありません。

善意の行動を取る前に、自分の器を知っておかないと、善意をまっとうする事はできません。

捨て猫を見たときに、「可哀想だなぁ…」と思っても、最後まで面倒を見れないなら、飼えない現実を受け入れなければなりません。

事実を受け入れ、無理なことをしないのも大我です。

両親の介護を引き受ける善意

自分を育ててくれた親だからと、両親の介護を引き受けなければならないと思う人は少なくありません。

色々な気持ちが交差して、介護を引き受けなければならない使命感を持つと思いますが、そこに迷いがあると苦痛に変わってきます。

もしも、両親の目を気にしていたり、親族の目を気にしていたり、誰かの目を気にして引き受ける介護であれば、それは小我の善意になります。

自分の人生をかけて、介護する覚悟を持てるなら問題はありませんが、自分の人生を生きたいと願うのが心情です。

その気持ちを持つことに罪悪感を感じる人もいますが、それは決して悪いことではないと思います。

両親が病に倒れても、自分の人生は自分の人生として見ないと、後悔が生まれることになります。自分を大切にしない人が、誰かを大切にすることはできません。

例え親の介護であれ、闇雲に引き受けることが大我ではありません。

大我の善意は、自分の器を知ること、自分にできることとできないことを冷静に見極め、無理ない範囲で、責任を負えることだけを引き受けることです。

できることとできないことを明確にして、「できることには全力で取り組む!」これが大我の善意になります。

もしも、親の介護などで無理をしてでも引き受けなければならないと思っている人がいるなら、考えて頂きたいのです。

感情に流される人生は、辛い人生になることが多いのです。無理をして介護をしてもみんなが幸せになれるでしょうか?

大我で物事を考えるのに、感情は必要ありません。

現実を冷静に見極め、無理のない行動することが大我の善意と言えると思います。