失ったものに執着していませんか?執着してはならないスピリチュアルの見解 | スピリチュアル専門サイト

失ったものに執着していませんか?執着してはならないスピリチュアルの見解

【門次郎のスピリチュアルブログ】

失ったものに執着していませんか?

人は得るものもあれば失うものもあります。

例えば、恋愛などでよくありますが、大好きな人とお付き合いをして、たくさんの喜怒哀楽を得て、たくさんの想い出を得たのに、そんな相手から別れを告げられてしまうこともあります。

たくさんの喜怒哀楽と想い出をもらったのに、相手が去っていってしまった方もおられるでしょう。

「あんなに愛した人はいない…私にはあの人しかいない…」といったご相談もこれまでにいくつもありました。

失ったものは大きく、その悲しみが癒えることもなく、5年10年と引きずってしまう方もおられます。

ご本人はそれではいけないと思いながらも、その気持ちを整理することができずに月日だけが流れていきます。

恋愛で傷ついた心を癒してくれるのは新たな恋だと言いますが、こうした引きずる想いというのは、次の恋愛を遠ざけることにもなるので、本当に悪循環なのです。

何かを失った時は何かを得るチャンスです。失ったことばかりに目を向けてはいけません。

失ったものに未練を持ち続け、気持ちの切り替えをしないことは、その人の進化を妨げる行為になります。

恋に例えるなら「新たな恋がないから忘れられない」と言っていたら新たな恋を遠ざけることになります。

「終わったものは仕方がないから忘れる」くらいの切り替えができる人なら恋多き人生になるはずです。

未練タラタラという状態は新たなご縁を遠ざけることになるので、決してよい状態とは言えません。

恋愛に限らず、人や物やお金を失ったとしても、それを嘆いているうちは幸は遠いのかもしれません。

何かを失ったことを嘆いているよりも行動する人が幸せを掴みます。

人生のドン底から這い上がってくる人は、このことをよく理解していらしゃる方達だと思います。

這い上がれた方達は、失ったものに執着して立ち止まる方ではないはずです。

この世は得るものがあれば失うものもあります。それがこの世だと言うことを理解しましょう。

人は過去に囚われてはいけません。常に今日、明日、明後日と未来を見て生きなければなりません。

未来を見据えて幸せになる人の話は聞いても、過去に囚われて幸せになる人の話はあまり聞きませんよね?

あなたが失ったものに囚われているなら手放してください。手放すことがあなたの幸せに繋がります。

パラリンピックの父とされているルートヴィヒ・グットマン氏をご存知でしょうか?この方がおっしゃっている名言があります。

「失ったものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」

この言葉は身体的な部分だけのことではなく、人生のありとあらゆる場面で言えることだと思います。

「失ったものに囚われて何になる?」このことを心から理解し、少々のことでは屈さない強い心を持ちましょう。

如何なる時も、今ある現実から最大限に活かすことを考えるから道が開けるのだと思います。それこそが幸せに近づくために必要なことです。

以下、ルートヴィヒ・グットマン氏について引用させて頂いたものです。

ルートヴィヒ・グットマン

ルートヴィヒ・グットマン(Ludwig Guttman, 1899年7月3日 – 1980年3月18日)は、ドイツ国(当時)出身のユダヤ系神経学者で、「パラリンピックの父」とされる。

経歴
ヴロツワフのユダヤ病院で医師をしていたが、1939年、ナチスによる反ユダヤ主義が台頭したドイツを離れ、イギリスに亡命した。1944年、ロンドン郊外のストーク・マンデビル病院国立脊髄損傷センターの所長に就任、1966年まで勤務した。

第二次世界大戦における戦闘で障害を持つことになった傷痍軍人たちの治療を通じて、その身体的・精神的なリハビリテーションにスポーツが最適であると考えたグットマンは、1948年、入院患者を対象としたストーク・マンデビル競技大会を始めた。この競技会はその後国際大会として開催されるようになり、参加者数も増えて規模が拡大し、1960年に同年のオリンピックと同じイタリア、ローマで開催された国際ストーク・マンデビル車椅子競技大会が、のちにパラリンピックの第1回大会、ローマパラリンピックと見なされることとなった。傷痍軍人たちを治療している頃に「失ったものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」という言葉をかけている。グットマンはイギリス障害者スポーツ協会の設立者でもあり、大英帝国勲章も授与された。

日本との関係
グットマンの下で学んだ中村裕を通じて日本にも障害者スポーツの種が撒かれた。

1959年 厚生省からの研修生(中村裕医師)を受け入れ。
1960年頃 1964年東京オリンピック後にパラリンピックを開催することを要請。 
1964年 6月 パラリンピックの開催準備視察のため来日、大分県で開催された身体障害者体育大会を視察。
11月 東京パラリンピックに参加、開会式でスピーチ。大会終了後、厚生大臣から勲三等旭日中綬章が贈られた。
1975年 大分県別府市で開催された第1回フェスピック大会時にも来日している。