偽善と善意の違い・良い事をしても偽善者と言われる訳とは? | スピリチュアルブログ

偽善と善意の違い・良い事をしても偽善者と言われる訳とは?

偽善と善意の違いは一体どこになるのでしょうか。

善意のボランティアであっても偽善と言われることがあります。

この記事では、私なりの偽善と善意の違いについて詳しく解説させて頂きます。




偽善と善意の違いとは?

人はよく善意のある人を見て「あいつは偽善者だ!」などと口にします。

震災などで、芸能人の方が多額の義援金を寄付すると「売名行為だ!」「偽善だ!」などと言われることがあります。

やっている行為はとても素晴らしいのに、どうして人はそれを偽善と言ってしまうのでしょうか。

悲しいことにこの世の中では、上記のような善意の行ないが、見方によっては胡散臭い(うさんくさい)と思われてしまうことがあります。

人は、善意が素晴らしいことであることを知りながらも、心のどこかで善意は胡散臭いと感じているのです。

どうしてそのようなことが起こるのか、人が感じる善意とは何かを説明させて頂きます。

偽善と善意の違いはどこにある?

そもそも人が感じる本当の善意とは、人の目にふれにくいところにあるものです。

善意が胡散臭いと感じたり、綺麗事と感じるのは、人の目にふれやすい善意を見ているからです。

人の目にふれやすい善意とは「見てみて!私、良いことをしていますよ〜」と人にひけらかすこと、人にひけらかす善意は偽善であるケースもあると思います。

人が偽善だと感じてしまうのは、善意の先に見返りを求めている裏を感じるからです。

見返りを求めている善意と感じた時、人は偽善者と罵ります。

人が素直に善意だと受け入れられるのは、人に気づかれない善意であり、見返りを感じさせない善意です。見返りを求めていない善意は、善意の行ないをした人になんのメリットもなく、本当の善意だと感じるものです。

そして、おおやけにしていなかった善意が明るみになったとき、人は素直に「善意だ」と認めることができると思います。

そう、本当の善意とは、見返りを求めない善意のことです。

例えどんなに善意の行ないをしたとしても、そこに見返りの気持ちがあれば、それは偽善と捉えられる可能性があります。悲しいですが…

人が本当の善意か、偽善かを見極めのは、見返りを求めていると感じるかどうかだと言えるのです。

偽善と言われるボランティア

ボランティアとは、自らの意志で自主的社会活動などへ参加し奉仕活動をする人のことですが、仕事ではありませんので、やりたくなければ参加をしなければいいのです。

災害などで被災して、混乱した現場で窃盗を働く者がいる中で、積極的にボランティアへ参加し、人の役に立とうとされる方もおられます。あの姿を見ると、世の中捨てたものではないと思います。

しかし、どう考えても善良な行ないのはずのボランティアが、一部の人からは「ボランティアなんて偽善だ!」と言われてしまうことがあります。

まったく同じボランティアをしていても、善意のボランティアと思われるか、偽善のボランティアと思われるかには明確な違いがあります。

善意のボランティアは「私、ボランティアしているんです!」と良い人であること周囲へアピールしません。

本当に人のためになりたくてボランティアへ参加をする人は、困っている人がいれば助けるのが当たり前と思っていて、特別なことをしている感覚ではないはずなのです。

人は、人の見えないところで努力をしている奉仕活動が見えた時に、素直に褒め称えますが、善意をひけらかす人は鼻に付きます。

「私、ボランティアしているんだよ!」と人に言いたくなるのは「人に良く思われたい…」「尊敬されたい…」といった、自分を良く見せたい気持ちがあります。

打算的なボランティアは自分のためにしているように見えるのです。そのため偽善と言われてしまいます。

偽善のボランティアをしている人は、人から認められなかったらモチベーションが下がり早々にやめてしまいます。

偽善者と言われないために

ボランティアが偽善と言われるのは、上記のような打算的な考えがあることが「ボランティアなんて偽善だ」と言われる原因になっているのではないでしょうか。

また、ボランティアをする人は偽善者だと言い切ってしまう人は、それだけご自身が打算的な考えで生きている可能性があります。

そんな人は、純粋にボランティアをする人を見ても良い人に思われたい偽善者だと捉えるかもしれません。

しかし、例え偽善でボランティアへ参加をしたとしても、何もしないで傍観者になるよりは良い決まっています。

どんな動機であれ、人に親切にすることは、いずれは自分に返ってきます。

話の流れからおわかりだと思いますが、人に親切にする時は決してひけらかしたりせず、自惚れないようにしましょう。

謙虚な善意を心がけることで、偽善者と言われない善意を行なうことができます。

私達はすぐに人にひけらかしたくなりますが、それではせっかくの善意も偽善になります。自制心を持って良い種を蒔きましょう。

世の中は偽善者だらけ?

人は、この世に生まれている時点で、基本的に利己愛で生きています。

肉体を持ち自分という個にとらわれているのですから、自分が一番可愛いと思うのは自然なことです。

そのため、利他愛の善意よりも、利己愛の偽善が世の中には溢れていると言わざるを得ません。

しかし、偽善であれ「やらない善よりやる偽善」が素晴らしいことは言うまでもありません。

自分を愛さず、人を愛することはできません。
自分を大切にしないで、人を大切にすることはできません。

人のために働く人も当然、自分の利益があるから頑張れる原動力になります。何もかも利益抜きにして行えば、生きてさえ行けなくなります。それをただの偽善だと言うのは無理があります。

偽善であれ善は善です、偽善でも善を振り撒きましょう。

私達の魂は、偽善と善意の狭間で人のために何かをしたいという善意を育てています。

魂は、本当の善意を持つことを目指して、この世の修行に参加しています。

まずは偽善から始めましょう。そのなかで、少しでも本当の善意が芽生えたなら、素晴らしいことだと思います。